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自己紹介

どうして私は大学に行けなかったのか ②

〜将来の夢と現実〜

10代(小学生時代)の私
 ⇒単純に誰でも問題なく行ける(進学して卒業できる)と信じて疑わなかった。ブラックジャックが好きで、5・6年生の時は医者になろうと思っていた。ちなみに、小4までは、ピンクレディーになりたかった(笑)
子どもって、なりたいものに成れるって思ってるもんね。

10代(中学生時代)の私
 ⇒だれでも行けると思うけど、まずは受験して合格しないとダメ。
  だから、成績によって必ずしも入学できるとは限らないことに気づく。
  将来は通訳ガイドになりたいと思っていた。

10代後半
15才

⇒中3の私は、小4・5と中2の長期入院で欠席していた期間の学習を取り戻し切らず焦る反面、憧れていた上智大学に、行きたい行きたいと言っていたら、なんとなく行けそうな気がしてた、天然(?)
現実を知らないので、猛勉強などしてません(苦笑)
社会と理科の偏差値はたしか30台、国語と英語は60台前後。数学は覚えていないけど、平均以下だと思う。社会と理科は致命傷ね・・・。
小学校時代の長期入院で分数のあたりが抜け落ちてたけど、できないまま。
高校受験にむけて、取り戻すべき学習内容が多くて、塾でも特別に補習を受けていたのだけど、まったく追いつけず、数学(算数レベルですね)と社会の暗記物、理科は放置気味。

16才
⇒高校受験は第一志望の公立進学校に落ちた!!!
第二志望の私立進学校に入学。
入学後まもなく、親族の会社が倒産。
親から、大学進学は諦めるように説得される。
途中から貸与型奨学金を受けたが、それは家の生活費になり、学費滞納の常習犯になる。学校までの定期券が購入出来ないこともあった。
私が私立に行ったから(生活が)苦しいのだというような事も言われていたので、私は一旦退学して翌年の公立再受験をしたいと親にお願いするも、世間体を理由に却下。
色々あり、私は登校を拒否。家にも帰らなくなり、自暴自棄になる。
(この話の詳細は後日また….なが~いストーリーがあるので)

17才
⇒いつでも高校は辞める気満々!勉強をする意味が見いだせず日々紋々とする。
そんな中、入った部活は楽しく、授業は受けず部活登校や保健室登校をするようになる。
やはり勉強はしたい気持ちはあるが、自分の置かれた状況に納得できず…受け入れられない。
夜間大学や働きながら学べる専門学校+短大、新聞奨学生など調べて、どうにか卒業後は進学させてもらえないか、すべて自分の力で行くからと親に懇願するも、進学すること自体がどんな方法でも許されず….。
自暴自棄第二期。

18才
⇒やはりあきらめきれず、幼馴染のおばちゃんに相談。「うちから(下宿して)通えばいいよ」と言ってもらえ、それを親に伝え、すべて自分でお金はどうにかすると言ってもやはり、却下。就職して、弟の為にお金を入れるように言われる。
ちなみに…母親は昔ながらの考えで、男の子を大学に行かせたかった。しかし、弟にその気は全くなかった。
殆どの在校生が、同じ学園内の短大や、系列や提携の大学に進学する。そんな中、社会人スポーツで就職する方や親の会社に入る方等を除くと純粋な就職組はごくわずか。
言われるままに、秋の就職活動で就職先を決めたら、『これで満足でしょ!あんたの言う通り就職決めたんだから、もういいでしょ!』と完全な自暴自棄第三期突入。そのまま卒業までほぼ登校拒否。私は卒業式もでていない。

小学校、中学校時代の学習できなかった時期は、私が勉強しないことを選んだわけではない。不可抗力っていうの?どうしようもなかったこと。

しかし、事情はどうであれ、高校3年間、まったくと言っていいほど勉強しなかったのは、自分の意思。
言い訳したらカクカクシカジカ前述のとおりの理由はあるのだが、結局は勉強しなかったのはワタシ。
学びたい、知りたい、学習したい!そんな思いはずっとあったが、あえて全く勉強しないことで私なりの精一杯の反抗とこころの叫びだった。
また、そうする事によって、私はギリギリのところで精神状態を保ってたんだと思う。

就職期

20代
⇒バブルの名残で地方都市はまだ潤っていた。
本屋に行っては、通信大学の事が載っている本を買ったり、地元の夜間大学のパンフをもらいに行ったりしていた。
だけど仕事も忙しく、また、とても楽しい時期。残業も今じゃ考えられない夜中に近い時間まで。
20代半ば、少し仕事が落ち着いた頃、地元の夜間短大に行こうと思い。入学金と授業料を貯めた。
10代で家を飛びだしていた私には、もう親は関係ない。自分の力で進学することが可能になった。
夜間短大に行くには、毎日会社を1時間以上早退しないといけない。
会社に相談したのだが、毎日早退なんて難しいよね。
もちろん許可はでない。
契約社員になるとか、パートになるとかだったら可能だけど。
それじゃ家賃を払って食べて行くのは難しい。
通信制大学についても検討したが、地方都市の為、スクーリングが地元でない!
今は生活するために、進学は難しいといったん、断念。いずれ時期が来ると信じて。

30才
⇒出産、子育て期
子どもにはなんとしてでも、大学まで進学させたいと強く思っていた。
そして、子どもが大学卒業して落ち着いたら、私も大学に行きたい!
そう思いつつ、少しでもお金があれば、自分のことではなく子どもに使いたいのが母親。
大学のことは時々調べつつ、子どもの成長が楽しく、生活は大変だったけど、我が子と暮らせることがとても幸せだと感じていた。
ずっと仕事も続けていたので、日々は超多忙。だけど幸せ♪

※30代の終わりに生まれた土地である名古屋に戻る。
このことにより、スクーリング問題が解消されるため、通信制の大学への進学の選択が広がる。

40代
⇒子どもの中学受験~大学入学
自分ができなかったこと、子どもが学校に通って勉強したり受験したり、部活に打ち込んだりしている事。それがとても嬉しかった。
この頃は子どもにも「ママはいつか大学に行きたい」という話をしていた。
大学に行けないという理由が、「親」でも「職場の事情」でも完全になくなり、私の意思で今は行かない選択になっていた。
自分が行くなら、子どもをまず行かさなきゃ!

50代
⇒子どもの大学卒業~就職~結婚
子そだてに終わりはないけれど、私の子どもの学習についての責任期間が終了(でいいよね?)。
まだ仕事はフルタイムで続けていたので、私の大学進学の時期ではない。

それでも、「大学へ行きたい」という気持ちだけは、40年間ずっと消えなかった。
そして、人生が少しずつ変わり始める。
(続く)

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どうして私は大学に行けなかったのか ①

「大学って行ける?」
そう聞かれたら、「行けるよ」って答えるよね。

でも私は行くことを許されなかった。

それは、私が『女』として産まれたから。

家庭の経済事情の悪化もあるが、一番の理由は、私の下に『男』の弟がいて、私は『女』だったこと。

私が願っても願っても、どうしようもなく。
自分の力で例え学費を工面したとしても、
とにかく進学することを却下された要因のひとつ。

【私の歴史〜背景〜】

出生〜幼少期


長子だった為、かわいがられたんだと思う。
たくさんの写真が残っている。

私の最初の記憶は1歳数ヶ月の頃。
当時住んでいたアパートの間取りや母親が台所に立つ後ろ姿や起こった出来事等を映像記憶と感情記憶として断片的に覚えている。

2歳で文字を覚えた事が母親の自慢らしい。
今でもその事を他人に話す。

幼稚園に通う頃には英語のフラッシュカードのような機械仕掛けの知育玩具あった事を覚えている。
私には他人よりいわゆる『できる子』だった記憶はないが、母親いわく周囲が年齢を疑うほど物覚えが早かった(らしい)。

2つ下に、妹。5つ下に弟が産まれる。
そして、徐々に母の自慢の対象が弟に変わる。
しかしながら、待望の男児は3人の中で一番出来が良くなかった。

私は幼少時から、ずっと
「あんたが男だったら良かったのに」
と言われ続けて育つ。

それは、もうアラ還になった今も続く。
80代後半に入る母、まだ頭はしっかりしている。
今もなお、私が幼い頃から出来が良かった事を他人に話す(断っておくが特別出来が良かった事実はないと思う)。

そして言う、
「あんたが男だったら良かったのに」。

ひと前だろうと、自慢話の後の締めくくりはこれ。

(続く)